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『職業としての官僚』を読んで

『職業としての官僚』を読みました。

いわゆる「官僚」である国家公務員について、平成初期から始まった国家公務員改革を軸にして語られた本。 著者はもともと人事院の審議官まで勤めた中の人で、書いてあることがとても細かく正確で丁寧に官僚の実像について書いている。さすが元官僚。 国家公務員改革の前後で官僚の性質がどのように変化したかが分かりやすく書かれており、現在の実像をよく知ることができ国家公務員を目指すなら読むべき本だろう。 また、海外の官僚制(アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ)との比較が語られていてるのは貴重だと思う。

自分の周りに国家公務員の人がいないので官僚という仕事に対する解像度はかなり低かったけど、この本を読んで少し解像度が高くなった。 制度とか表面的な面もそうだし、幹部クラスへのインタビューの結果なども掲載されていて裏側の実態もある程度把握できる。 平成初期と現在では、制度も官僚の風土・文化みたいなところも合わせてかなりいろいろと変わったんだなと思った。

官僚というとどうしても世論から厳しい目で見られがちで、実態をきちんと捉えるのは難しい。 でも、この人が述べていた現在の官僚制度・そこに根付く文化に対する危機感みたいなのはそのとおりだなと感じた。 詳しくはこの本の引用に譲るけど、職業としての官僚の魅力はだいぶ落ちてきてるんじゃないかと思った。

こうした状況下で、公務員の働き方については、全体としては民間との均衡が重視されるようになってきたにもかかわらず、政治的課題を下請けするための野放図な残業や、政治家の絡む不祥事における見せしめ的な官僚更迭などが目立つようになっている。「民主的統制」が、「政治的命令は、労働者としての常識的な働き方の確保よりも優先される」と解釈されている。野中尚人は、一連の改革によって生じた官僚の位置づけについて、社会のリーダーからlackey(家臣・下僕)への変化と表現している。

メディアも学界も、改革の過程では、官僚制に対しどれだけ叩いても崩れない強固な壁、常に優秀な人材が集まってきて無定量で働く集団というイメージを持っていたようにみえる。しかし、実際の官僚一人ひとりは傷付きやすい生身の人間であり、特別な強さなど持ち合わせていない。転職困難な中堅以上の世代は、「家臣化」要求を受け入れる以外の選択肢がなかったが、若い世代には政治から責任転嫁されぬよう一線を劃す立ち位置を探す者が増えている。優秀な学生の間で「官僚は損な職業」という見方が広がる中、近年の採用は、損得勘定抜きの公益志向を持つ稀少な人材だのみという脆弱な状態となっている。政治からの要求は、公益に奉仕する誇りや使命感を持つ個々の官僚の必死の働きによって、かろうじて対応されているに過ぎない。

これは自分もよく感じるところだなぁ。これに関しては官僚だけでなく政治家に対してもあてはまると思う。 結局、主権は自分たち国民にあるわけで、官僚も政治家も自分たちの延長上にある一人の人間であるから、公益のためになんでもやって当り前というのは違うんじゃないかなと思う。 こういう、「あっち側・こっち側」、「ウチとソト」の意識はタテ社会の構造によるものなのだろうかと、昔、読んだ本を思い出したりしたな。


官僚制度もここ30年でいろいろと変化があり、なんかクリーンになったなぁと思ったけど、省庁 OB が会社の人事に当然のように介入したりみたいのは現実にあるわけで、この著書に書かれたような綺麗な世界だけじゃないんだよなーとは思った。東大・京大が減ったみたいなこと書かれてたけど、事務次官クラスは今でもほとんど東大卒の男性だしね。

でも、こういう事件が表に出てきちんと問題になって、退任したりするので自浄作用は働くようになったのかもしれないし、今の若手が事務次官になるころには多様性が高まっているのかもしれない。

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